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中国年号の歴史

「一年で三回も改元した武則天」 中国の年号の歴史をおさらい

日本の年号がついに令和へと改められました。史上最長と言われる10連休も一区切りとなりましたが、祝賀ムードはまだまだ続いているようです。

今回の改元は中国の各メディアでも盛んに取り上げられました。その理由は、中国自体が年号という制度の元祖であり、今は廃止してしまっているからかもしれません。ご存知の通り、日本は中国から様々な文化を取り入れており、年号もその一つです。日本が中国に倣って年号を使い始めたのは七世紀後半、645年の「大化」からでした。

では中国はいつからこの制度を始めたのでしょうか。イメージとしては、秦の始皇帝が中国を統一したあたり(紀元前221年)と思われがちですが、実際はその81年後の紀元前140年です。この時期は漢武帝・劉徹という人が前漢という国を治めていました。彼は『項羽と劉邦』でお馴染み、劉邦のひ孫にあたります。彼は即位するにあたって年号の制度を新たに設け、その年を「建元」としました。ここから年号の歴史が始まります。

 

年号を作った理由は、新しい皇帝が即位したことを記念するためと、皇帝の在位期間をわかり易くするためだとも言われています。また中国の君主は「天子」と呼ばれ、天命を受けて天下を治めることができると考えられてきました。つまり領土だけでなく時間をも支配する皇帝の絶対権力の現れであると言えるかもしれません。実際、中国と朝貢関係にあった朝鮮や琉球王国などは、宗主国への敬意の証として、中国と同じ年号を使っていた時期があります。

 

一つの時代に二つ以上の年号があった

 

中国の年号制度は辛亥革命で清国が滅亡する1912年まで続きました。

中国最後の年号は「宣統」です。宣統帝溥儀といえば、誰もが知っている中国ラスト・エンペラーのことですね。紀元前140年から1912年までの2052年間で、合計300個から500個以上の年号が生まれています。

 

年号の合計数にばらつきがあるのは統計方法が違うからです。ご存知の通り、中国では古来より複数の実力者が各地で勢力を振るっていました。「勝てば官軍、負ければ賊軍」を地で行く、群雄割拠の様相を呈していたのです。漫画『キングダム』の舞台である春秋戦国時代は7 つの国が天下を争っていましたし、三国志の時代は魏・呉・蜀が天下を三分していました。実際、三国志の時代はそれぞれの国が違う年号を使っていました。222年の時点で曹魏は「黄初」、孫呉は「黄武」、蜀漢は「章武」となっています。但し、「一つの時代に皇帝は一人だけ」と主張する学者もいれば、その逆もいます。これが合計数にばらつきのある理由です。ちなみに日本でも、南北朝時代の南朝と北朝を合算する場合と、南朝のみを正統朝廷とする場合で、年号の合計数が変わってくるようです(前者で248個、後者で232個、いずれも令和を含む)。

 

一人の皇帝で18個の年号

 

現代の日本では、一人の天皇につき一つの年号というのが当たり前になっています。これを「一世一元の制」と言います。

但し、日本を含め、一人の天皇につき複数の年号が使われていた時代もありました。最初に年号を取り入れた漢武帝は合計11個の年号を定めています。中国史上唯一の女帝として有名な武則天にいたっては14個もあります。彼女の在位期間は14年だったので(690年〜704年)、平均で一年に一回改元していた計算になります。今だったら毎年10連休でウハウハですね。

 

それはさておき、なぜ頻繁に年号を改めなければいけなかったのでしょうか。よくあるのは、めでたい出来事や珍しい自然現象が起こった後に改元されるパターンです。『漢書」によると、漢武帝は現在の陝西省あたりで狩りをしている時に、白い色をした麒麟を捕まえたそうです。これを天からの吉兆と見做した武帝は、年号を「元狩」と改めました。また、彗星のような物を見た年には「元光」に変えてみたりと、なかなか自由気ままです。

三国志でお馴染みの孫権は、赤い鳥を見かけたのを理由に、年号を「赤鳥」にしました。

武則天は、通天宮という大宮殿の竣工記念に年号を「万歳通天」に変えています。また彼女はなんと一年に三回も改元したことがあるようです。695年の一月に「証聖」にしたかと思うと、九月には「天冊万歳」に、11月には「万歳登封」に変えるなど、まるで部屋の模様替えでもする様な感覚です。さらに言うと「万歳登封」はその後一年しか使われていません。さすが中国三大悪女に数えられているだけありますね。彼女の傍若無人に振り回されていた人たちの姿が思い浮かびます。

則天武后が定めた年号一号

こういった気まぐれな制度は明の時代で終止符を打ち、晴れて一世一元の制が確立されました。

 

ちなみに日本でも、明治以前は新天皇即位以外の理由で改元が行われていました。代表的なのは、大地震をきっかけに文禄から慶長へと改められた例です。『見る・読む・調べる 江戸時代年表』によると、江戸時代に災害が理由で改元した回数は合計で13回に及んでいます。また、240余りある年号のうち、災害や天変地異、疫病などによる改元は、全体の約半数を占めると言われています。日本が災害大国であるという事を改めて思い知らされます。

令和の典拠「梅花の歌」にあるよう、気淑(よ)く風和ぐ時代が続いて行くといいですね。

 

おまけ

 

面白い年号

○普通(520年〜527年) 「普通なネーミングですね」

○神亀(518年〜520年) 「中国語でミュータント・タートルズのことを『忍者神亀』と言います」

○甘露(256年〜260年) 「のどによさそう」

かっこいい年号

○天聖(1023年〜1032年) 「麻雀ゲームではありません」

○皇統(1141年〜1149年) 「天皇および皇族の身分に関する事項を記す帳簿は皇統譜と呼ぶらしいです」

やたら長い年号

○天賜礼盛国慶(1069年〜1074年) 「まったく、最近の天賜礼盛国慶生まれの奴らときたら」

○天授礼法延祚(1038年〜1048年) 「北斗神拳の最終奥義にありそう」